ホィ!オダユだ!…いやはや近頃ぐんと暑くなりましたね。この間なんか蝉の鳴き声まで聞こえてきてしまって、湿気が息苦しい中確かに夏がきているなあと思いました。というか一昔前まで三十度を超えるのは八月入りしてからだったような…気のせい……?
さて今週はアニミズムの話でもしましょうか。
というのも土曜日って沢山の小さい子が電車に乗っているのですが、時折自分の子どもを静かにさせるためにスマホを渡したりする親を見ます。
それが悪いとも言えませんが、どうして小さい子は騒いでしまうのかというところから目を逸らしているように気もするので、若いうちから考えておいて将来活かせればなあと思った次第です。
これがどうしてアニミズム(万物に霊魂が宿る考え方)とくっ付くのかというのは少し置いておいて、まず小さい子から見る世界について考えてみようと思います。
乳飲児からひとまわり大きくなり、彼は駆け回ることが可能になって世界は広がります。今まで室内など、少なくとも親の側を離れて世界を見たことがなく、ましてや自発的に起こすアクションは本能に倣ったもののみ。そこから自分から動けるようになるのですから、それはもう世界の全てが真新しく見えて仕方ないのではないでしょうか。
しかし、彼らはまだ「他人」を知りません。
正しくは彼らの世界における人間というのは親、親の友人や親族、自分の友人などのみで、他の人間はいわゆるオブジェクトのように見えている。これは仕方のないことで、乳飲児のときに必要なのは母親の認識、それからいきなり万人に目を向けるのが難しいことは頷けると思います。
また、ここで初めのアニミズムが現れます。
よく親が子を叱るとき、小さい子の場合は「ピーマンが食べられなくて悲しいって言ってるよ」「机さんが叩かれて痛いって」などと言います。
これはいわゆる擬人法ですが、子どもは素直にピーマンを不憫に思って口にしたり、机というオブジェクトに対して謝るなどします。
側から見れば微笑ましい場面ですが、ここに子どもならではの世界があるのです。
幼い子はアニミズムの思想をしており、自分の思うに他人も物質も等しく見えているのではないでしょうか。自分の認識する親しい人以外、自分の理解の及ばないところはアニミズム的に捉えて等しく見えてしまう。「〇〇が〜〜だって」と親が教えなければ、彼らはその自分の認識の外について目を向けることはありません。それでいて彼らからして人間は「自分から言葉を発する生き物」ですから、たとえ煩くして嫌な顔をされたとしてその思いを言語化されなければ彼らに届くことは難しいのでないでしょうか。
それでは、我が子が迷惑をかけている時にどうすればいいのでしょう。ある程度物心のついた子であれば「他の人の迷惑になるよ」で通じますが、それ以前の状態であるとそれの判別がつかないのだと思います。自分の経験で言えば、二階で騒ぐと「一.五階の人が困るよ」と言われました。
つまり、自分の見たことのないもの、もしくは床そのもの(自分が声を聴くことのできないもの)が困ると言われ、素直に受け入れていました。
このことから考えると、例えば電車で騒いでしまったなら「電車さんが苦しいって」と言ったりするのが妥当なんじゃないかと思います。
体内で騒がれれば苦しそうなのは自分に置換可能ですから、それは嫌だと黙ってくれるのかもしれない……まあ実際に子どもは居ないので理想論といえばそれまでなのですが、とにかく親になった時、目線をどれだけ子に近づけられるのかがとても大切になるように思うのです。
よく子どもと話すときに目線を合わせる人は優しいなどと言うように、彼らの見る世界がどのように認識されているのかということを分かる大人になりたいと考えたりする最近でした。
というわけで長々と書きましたが、来週あたりから多分新しいメンバーが参加すると思われます。それではヨーソロ、またこんど!
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