香り
じゅわ、という音と、美味しそうな香りで目が覚めた。
薄く開いた目の隙間から、刺すように入り込んでくる光がうざったくて、ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、結局寝返りを打って物理的に遮った。その間も、鼻は勝手にすんすんと今日の朝ごはんを判定しようとする。
あー、まぶしい。眠い。美味しそう。二度寝したい。おなかすいた。
じゅ、とまた音がした。カンと何かのぶつかる音と、合間にぱたぱたと小さく足音が聞こえる。
脳が、耳から、鼻から、少しずつ朝ごはんに浸食されていくこの感覚は嫌いだ。いっそ、眠い時はちゃんと寝て、起きるまでは一切の感覚を遮断したい。が、そうすると多分私は一生起きることができないので、多少の必要性は一応理解している。
もっと大きな家を買って、2階に寝室を置けば、この感覚を味わわなくてもいいのだろうか。しかし、大学を出たばかりの新社会人に、東京の高い土地が買えるわけもないので、しばらくは我慢するしかない。
チーン、とレンジが鳴った。トーストかもしれない。
途端、焦げ臭い匂いがあたりに充満する。
「あちゃあ…」
嫌な空気を纏った声が聞こえた。嫌な予感しかしないので、布団を引き上げて顔を半分隠す。私は今完全に寝ていますよ。起こさないでください。
「…ねぇ、おきて〜」
嫌だ!!!
と、叫びたいところだが、起きるしかない。このままでは、真っ黒焦げの食パンが積み上げられ、空の食パンの袋が部屋を舞うことになる。
「……こげくさい」
せめてもの抵抗に、そう呟くと、一拍おいて申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「…ごめんなさい……」
はぁーーーーー。そんなにしゅんとした声出されると許すしかないじゃないですか。ねぇ。多分、こうやって結局許して、私がやってしまうからいつになっても焦がすんだろうけども。
眩しい光という名の敵と戦いながら瞼をどうにか持ち上げると、まゆげをハの字にした私の彼氏さんと目があった。
「おはよう」
それでも、この、同じ家に住むことを実感してちょっと嬉しそうな、でも申し訳なさそうな顔を見ると、起きる面倒臭さとか、そういうのがどうでも良くなってくるのだから、多分もう、どうしようもない。
「………おはよ」
わざと不機嫌そうな声をだして、起き上がる。小麦粉の焦げる匂いの中でこうやって起きるのは、もはや三日に一回の恒例となっている。
うちのトースト機は親の実家から譲り受けたかなり古いもので、機械自体は悪くないのだが、時間設定を自分でやらなければならないタイプだ。どうやらマイダーリンはそれが苦手なようで、まともに焼けたことはない。それなら私に押し付ければ良いのに、毎回律儀に挑戦しているのだから、健気な彼氏様だ。スーパーダーリンを目指しているらしいが、どこまで頑張るのやら。
毎回結局こうやって起こされて、彼氏が焦げたパンを粉々にし、色々混ぜてどうにか食べれるような状況にしている間、新しいパンを私が焼き直す。この上なく面倒で、それなら最初から起こせよ、と思わないでもないが、まあ、頑張るその姿をかわいいと思ってしまうので、仕方ないだろう。
この焦げた匂いだって、どこかのデパートの香水売り場に比べれば、私にとってはよっぽど良い香りだ。好きな人と、一緒に住んでいる証なんだもの。
「ほんと、どうしようもないなぁ……」
「ん?」
ぽつりと呟くと、不思議そうな顔がこちらを見る。女子顔負けの大きな瞳に、ただ一人だけ映っていることに満足して、いつもの言葉を放った。
「てか、早く換気して!」