桜に招かれて
桜の蕾が綻ぶ頃、ボクたちはまた一つ、大人へ近づいていく―――
引っ越して来たばかりの1DK、何もない部屋に俺の溜息がこだまする。 この部屋がまた狭く感じるようになるのが先か、俺がこの街から出ていくのが先か。 実家とは違うユニットバスをまじまじと眺めながら、そんなとりとめのないことを考えてみる。 ベランダに出てみると、この街の名物の桜並木が見える。 まるで地平線の限りまで広がっているかのような錯覚に陥って、首を幾度か振った。
もともと志望した理由は家から近かったからだ。 その気になれば歩いてでも自転車でもバスであっても――まあ要するに楽ができると踏んでいたわけだ。 ただ、人生に想定外なんてものはつきもの。 前期試験の出願に間に合わず、慌てて後期日程に申し込む羽目になったこととか。 あの日ほど、自分の趣味に俺を付き合わせて数学オリンピックに出ようとしやがった友人に感謝した日は無いだろう。 予選落ちしたが。
さてさて俺の人生の想定外、その中でも最たるものが
「おっはよー。 こんないいとこ住むことにしたんだ。キミらしいね~」
……京香だ。旅先で出会って以来、半ば腐れ縁になっている。関係性を一言で表すならば、友達以上恋人未満というやつが一番近いだろう。友達と呼ぶにはお互い色々なことを知りすぎた。恋人と呼ぶには色気が足りなすぎる。ああ、大学に入ったら、バイトしながら友達と部屋で麻雀やって過ごして、でも授業でも手を抜かず、適当に資格でも取って卒業、なんて思っていた計画が崩れ去った音が聞こえた気がする。
グッバイ俺の理想の大学生活。 こんにちは面倒事。
「勝手に入ってくるのは勘弁してくれ。 こちとら引っ越したばかりで暇じゃないんだが? 」
「やだなぁキミは。 どうせ荷物なんてそこまで持って来てないでしょ? 片付けが面倒だーってぼやいてたキミが、そんなに沢山モノを持ってくるもんか」
「お察しの通りだが、生憎出先では、近所を一回りしないことにはどうにも落ち着かない性分でね。 それで、こっちは何の用だと聞きたいんだが、いいかな? 」
「うん、実は―――家出しちゃった」
またか、と思わず天を仰ごうとした拍子に、玄関の電球を取り付けていなかったことに気付く。ああ、いかん、電球を買いに行かねば……
「ねぇちょっとキミ、聞いてる? 」
「ああ聞いてる聞いてる、どこのスーパーから来たんだ? 」
「ボクの実家はスーパーじゃないよ、キミも知ってるだろう? 現実逃避してないで、目の前のいたいけな少女を助けようとは思わないのかい? 」
「ほう、いたいけな少女ねぇ。俺の目の前には、実家が堅っ苦しくて逃げ出した腕白少女しかいないと思うがな」
俺がそう返すと、自称いたいけな少女は一言。
「わかってるじゃないか」
その余りに尊大な態度の横っ面にデコピンでもくれてやろうか、なんて思っていると、ふと彼女が表情を変えたことに気付いた。普段の化け狐のような不敵さはすっかり鳴りを潜めていた。
「でも、今度ばかりはどう言われたって構わない。もうあの家には戻りたくないんだ」
そこまで言ったところで、一陣、突風が桜の花びらを巻き上げ過ぎ去っていった。春先とは言えまだまだ風が吹けば肌寒いもの。
「一先ず、玄関で話すのも不便だ。部屋に入るぞ」
そういえば、京香について一つ忘れていた。
こいつはいつも、俺に面倒事を持ち込むのだ。