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「リュウ!」
 帰りのホームルームが終わったあと、騒がしくなる教室で、隣の席のレイがいつものように声をかけてきた。
「帰ろうぜ」
「あ、ごめん」
 いつもと違うのは、声をかけられたリュウの返事だった。
「今日委員会なんだ。遅くなると思うから先帰ってて!」
 時計を見ると、集まりの時間まであと五分あまり。いつも五分前行動を律儀に心がけているリュウは、とても焦った。第一回目の顔合わせの日に限って、どうしてこのクラスは終わるのが遅いのか。担任は新任の若い男性の数学教師で、爽やかで話しやすいため女子人気が高く、授業もわかりやすいものの、仕事があまり早くないのが玉に傷だった。
「あ、図書委員だっけ」
「そう、いってきます」
 「頑張れよ〜」というのんびりとした声を背に、重い鞄を前に抱え、駆け出す。ちなみにレイは、朝はいつも始業二分前に駆け込んでくるし、十分休みの教室移動は三分前にならないと動き始めず、鞄はいつもただの布かのように軽い。
 この地に引っ越してきて、この高校に入学してから約一ヶ月、初めてのことばかりで大変なこともあったけれど、そんな正反対の友人もできて、概ねうまく行っている。それでも、今日は少し緊張していた。
 脳内に、赤みがかった茶髪の女生徒の姿が浮かぶ。
 ありとあらゆる本を読み漁ったリュウには、この感情にどんな名前をつけるべきかなんてもう分かっていたけれど、なんといっても初めてで、まだ困惑の方が大きかった。それでも、今までは絶対に避けていたような委員会に、自ら志願して入ろうと決めたのは他でもない、彼女がいたからだった。


 彼女と出会ったのは、入学式の翌日の放課後のことだった。
 一応世間一般的には進学校に入るこの学校では、容赦なくこの日から授業が始まり、クラスの人たちはみんな疲れたのか、さっさと帰っていった。隣の席で仲良くなったレイを、図書室を見に行くのだが一緒に行かないか、と誘ってみはしたものの、今日はすぐ塾があると言うので仕方なく一人で行くことにした。
 リュウは、いわゆる活字中毒に近かった。毎日何かしら、お気に入りのブックカバーに包まれた文庫本を持ち歩き、隙あらば取り出して開く。友達があまりいなかった小学時代などは、休み時間すべてを読書に費やし、昼休みは図書室に篭りっきりだった時期もある。何もない時は食品のラベルを読むし、お気に入りの本は何度も読んだりする。
 この学校は蔵書数を売りにしていて、学校見学に来た際には、高い木製の本棚にぎっしりと詰まったたくさんの本、明るすぎない照明、そのどれもがリュウの好きな雰囲気を醸し出していて、絶対にここに来たいと思ったものだ。念願叶って入学を果たしたからには、いち早く駆け込み、ゆっくりと本を読みたかった。本当は昨日にでも行きたかったのだが、さすがに入学式当日は開いていなかったので仕方がない。
 引き戸式の扉を、音を立てすぎぬように開き、中を覗く。新学期早々だからか人はまばらで、上級生と思しき人が何人か自習しているのみだった。静かな空間に、ペンを走らせる音と、ぺらぺらと紙を捲る音だけが響いている。
 そおっと中に入り、また音を立てぬよう扉を閉め、一息つく。入り口近くの受付には誰おらず、本を借りる時は誰かを呼ばなければならなさそうだ。しかし確か、新入生はどうせ来週の図書館授業があるまでは本の貸し借りをできなかったはずなので、問題はない。
 何を読もうか。たくさん立ち並ぶ本棚の間を歩きながら、浮き足だった気持ちで考える。
 まずは、品揃えを確認したい。とりあえずは自分の好きな作家を見に行くことにした。
 本棚の側面に書いてある表示を見ながら、日本の小説の棚を探す。やはり読む人も多いのか、それはわかりやすい場所に位置していた。
 覗き込むと、そこには一人の女生徒がいるのみだった。左脇に五冊ほどを抱え、右手に持った本と棚を交互に睨めっこしている。
 地毛だろうか、少し赤くも見える長い茶髪が、動きに合わせて背中で揺れている。
 委員会の人だろうか、と見当がついた。中学で、仲の良かった図書委員の、返却された本の棚戻し作業をたまに手伝っていたのを思い出す。
 その棚の一番手前にある本の作者の名前を見る限り、目当ての作家は奥の方にありそうだ。
 委員の人の後ろを通ろうとして、ちらりとその持っている本を見る。ちょうど、右手に持っていた本の居場所を見つけたようで、棚に戻した時だった。
 あ、と思わず声をあげそうになる。その左脇に抱えた本の中に、目当ての作家の著作が混ざっていたからだ。しかも、読むならあれかなと見当をつけていたもの。それは下から二番目に重なっていて、棚に戻されるのは先になりそうである。
 まあ少しくらい待つか、と先に棚の奥へと進み、その作家を探す。案外早く見つかった。この作家の著作は伏線がいつも張り巡らされているから、何度読んでも楽しめるのだ。
 新刊以外の大体の作品が揃っていることを確認して、もう一度ちらりと女生徒の方を見る。そして思わず吹き出しそうになった。
 女生徒は、一番上の棚に本を戻そうとやっきになっていた。誰もが取りやすいような設計のおかげで全く届かないわけではないのだが、おそらく入れ間違いか何かでもうその本が入る隙間が微妙に足りておらず、入りそうで入らないという状況。大雑把な性格なのか無理やり入れようとしていて、正面から力を込めるために背伸びしていることもあってか、足がぷるぷると震えている。大体、抱えた本たちをまず置けば良いのに、危なっかしくて仕方がない。
 普段はこういうとき手出しなどしないのだが、この時はなんだか気が向いて、近くまで行き、その同じ段に入っている中から分厚いものを一つ抜いてやった。隣にあるものたちを少しずらすと、彼女が入れようとしていたものがするりと難なく収まる。
 と、そこまでは良かったのだが、直後。
 背伸びしていたためにバランスが崩れたのだろう、彼女は本棚に頭をぶつけ、抱えていた本が、ばさばさと騒がしい音を立てて床に広がった。
「……ったぁ……」
 笑ってはいけない。それは分かるので、リュウは必死に耐えた。元々表情筋はあまり動かない方である。俯き、手で口を抑えていると、女生徒が気まずそうに「…すみません」と小さく謝る声が聞こえた。
「いえ、…大丈夫ですか」
 そちらを見ると、右手で額をさすっている。少し赤くなっていた。
「…だいじょぶ、です」
 よく見ると、赤いのは顔全体だった。そりゃあ恥ずかしいよな、と思い、また口を抑える。
 二人で屈んで、落ちた本を集める。ついでに、目当てのものはしっかり自分で持って、他は一旦床に置いておく。
 先ほどの棚の一番右側のものをまず取り出して、下の段へ。抜いたものを同じ場所に仕舞うと、ピッタリと収まった。隣から、おぉ、と小声で感心するのが聞こえる。
 懲りずにまた他の本をすべて抱えようとするので、取られる前にリュウが拾った。
「こっちはやります。…どうせこれ読みたいので」
「……あ、ありがとう。…ございます」
 ふにゃりと彼女が笑った。その笑顔が、やけに脳に張り付いて、取れてくれなかった。


 集合時間の三分前に、指定された図書室横の特別教室に駆け込むと、まだ人はあまり集まっていなかった。世の中は割と、レイのような人が多いらしい。
 窓際の一番後ろの席でに座って、一息つく。
 リュウは特に、人見知りというわけではないけれど、積極的に人と関わりを持とうとはしない人だった。頼まれれば真面目に取り組むし、失敗することも少ない。ただ、少しでも多くの時間を読書に充てたいから、自ら仕事をしに行くなんてことはしなかった。
 これが運動委員などであれば、たとえ彼女と会っていたとしても、入ることはなかっただろう。図書委員ならまあいいか、と思えたのも大きい。
 鞄から読みかけの本を取り出し、二ページほど読み進めたところで、担当の男教師が入ってきた。ブックカバーに付属していた栞を挟んで、閉じる。
「はーい、出欠取ります」
 一年一組、二組、「はい」と声を上げる。ひとクラス一人ずつ、一学年四組までだから、計十二人。来てないクラスもあるとは言え、十人はいる。その中に、あの茶髪は見当たらなかった。
 学校を休んでいるのか。そもそも委員だろうというのは早とちりだったのだろうか。少し恥ずかしくなり、窓の外に目をやった。
 あっという間に出欠が終わったようで、教師が「何すっかな」と暇そうに教卓に寄りかかった。
「いやな、俺がすることあんまねぇの。大体委員長に任せてるから」
 委員長。思わず瞬きをした。
「なんか、あの人今日少し遅れるらしくてさー。待つ間何する?」
 前の方の席に座っていた、知り合いらしい生徒に問いかけると、「委員長ってどんな人なんすかー?」と元気な声が上がった。
「え、高二女子。去年から引き継ぎだから知ってる人も多いだろ」
「へぇ」
 へぇ。心の中で同じように相槌を打った。
 教師が仲良い生徒と雑談を始めたので、本を出す。開いて読んではみるが、なんだかいつもより集中できなかった。
 どれぐらい経っただろう。きっと五分にも満たない短い時間の後、ドアが開いて、女子が駆け込んできた。
 赤みがかった茶髪が、ふわりと揺れて、彼女が笑顔で教壇に立った。
「遅れてすみません! 図書委員長の、河島紗奈です、よろしくお願いします」
 ぱたんと、持っていた本が閉じた。
 栞は挟み忘れた。

​國學院久我山高校文芸部

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