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ぶらんこ

 キィ、と、金具の軋む音に合わせて、黒いパーカーを着た体が前後に揺れる。子供用の遊具は、もう小さくない青年の体重に、小さく悲鳴をあげていた。

 ゆら、ゆら。昔は思い切り地面を蹴って、空を切る感覚を楽しんでいたものだが、今ではそんな気力などとうに消えていて、数センチずつ揺れる程度である。青年がこのブランコと呼ばれるものに乗っているのは、単なる暇つぶしに過ぎない。
 もう夕方だからか、他に人はいない。もとより、子供達が来るような活気のある公園ではなかった。ブランコの下に落ちた影は長く伸び、子供の頃はこの時間帯でも夜が来たのだと思っていたことを思い出す。夕暮れでも、子供の世界では確かに夜だった。
 ここは、青年がまだ子供だった頃によく遊びに来ていた場所だった。数年の時を経てなくなってしまった遊具もある中、このブランコだけはずっと変わっていない。
 まず、馬の形をした乗り物が消え、芝生が広がった。あんなに大きかったジャングルジムは、てっぺんから落ちて怪我した子供の親からのクレームにより撤去され、小さな滑り台になった。公園の至る所にあった樹は伐採され、住宅とのしきりとして使用されているものしか残っていない。他にも、向かいにあった小さな街のパン屋は潰れてコンビニチェーンが入り、隣にあった日本家屋はリフォームされて洋風になってしまった。
 この街は変わった。変わってしまった。
 その中で、青年とこのブランコだけが、取り残されていた。
 昔、この公園で、ある少女と仲良くなったことがあった。
『あなたの名前は?』
 少女は突然、鍵を忘れて家に入れず、ひとりブランコを漕いでいた少年に、そう声をかけて隣のブランコに座った。戸惑いながら名乗り、挨拶を交わしてからは数日に一度、この公園に集まって遊んだ。
『ぶらんこに乗ってたらさ、空に飛んでいける気がしない?』
 少女はよく、そんなことを言っていた。
 よくこのブランコから折り紙で作った紙飛行機を飛ばした。何をしていても、二人でいるなら楽しかった。
 しかしいつしか、少年は青年になり、少女は女性へと向かうにつれて段々関わりがなくなってしまった。青年が高校生になったころ、人づてに少女はこの街を出たのだと知った。
 でもそれは、何もおかしいことではない。幼い頃の男女の仲がずっと続くというのがどれだけ稀なのかくらい、青年も理解している。
 でも、理解と納得はまた別の物であった。
 キィ、キィ、と音を立てながら、もう誰もいなくなった公園から、空を見上げる。無駄に綺麗な、夕暮れに焼けた天井が、青年を見下ろした。
「ねぇ」
 断続的に響く金属音の隙間に、突然小さな声が落とされた。考え事をしていたせいで足音に気づかなかったのだろう、空に向けていた視線を下ろすと、ブランコの柵の外に一人の女性が立っていた。
「久しぶり」
 白いハットをかぶり、白いワンピースの上に黒いカーディガンを羽織っている。手には何故か、赤い風船を持っていた。
 青年の視線に気がついた女性が照れ臭そうに笑う。
「これね、さっき小さい子に貰ったの」
 そうなんだ。小さな声でぽつりと返す。
 女性は、ふわりとワンピースと風船を風になびかせながら、ブランコの冊の中に入り、隣を指さした。
「隣、いい?」
 昔の君は、そんなこと聞かなくても勝手に座っていただろう、なんて、そんなことを思いながら、うん、と頷いた。白いワンピースが汚れるのを気にしてか、軽く手で座面を払ってから腰を下ろす。
 キ、とまた、金属音が鳴った。
「……帰って、きたの」
 たん、と弱く地面を蹴ると、さっきよりも体が後ろに振れ、振り子の原理で前に体が押し出される。
「…うん」
 隣のブランコは、先程から音を立てず大人しくしている。青年も、靴裏で地面を擦って動きを小さくした。
「昨日、帰ってきたの」
 あの頃より伸びた髪が、風に揺れる。横から覗ける表情は静かで、心なしか寂しそうに見えた。
「…なんか、来ちゃった」
 苦笑をこぼす女性の中で、無邪気な少女は影を潜めているようだった。大人になっていた。
「…そっか」
 なんと返したら良いのか分からず、そう返す。沈黙が下りた。
 少しの気まずさを感じて夕焼け空を見ていると、紙飛行機になりたいな、なんてそんなことを言った少女を思い出した。
 どうして? そう聞けば、確かこんな返事があった。
 だって、飛べるでしょ。そう言って折り紙で作ったちゃちな紙飛行機を飛ばした。少女、空を飛ぶということに大きな憧れを持っているようだった。
 ぱさり、と落ちるそれを見て、少年は言った。でも、自分では飛べないしすぐ落ちちゃうよ。
 でもいいの。だって、飛んでる時は楽しそうだから。
 それを聞いて、少年はどう返したんだったか。もう、忘れてしまった。
「…明日、この街を出るんだ」
 する、と言葉が出てきた。
「だから、なんとなく、ここに来た」
「…そう、なんだ」
 入れ違いだね、と苦笑いの声が横から聞こえる。
「…私は」
 少し躊躇うように間を置いて、女性が呟く。
「……来月、結婚するの」
 親への、挨拶で、ここに。ごくごく小さな声で、そんなことを言った。
 おめでとう、という言葉は出てこなかった。代わりに、そっか、とまたありきたりな相槌を打つ。
「…はやく、帰らなきゃ」
 控えめな金属音と共に、女性が立ち上がった。結局、隣のブランコが鳴いたのは二度のみだった。
「これ、」
 青年に向き合った女性が、手に持った風船を差し出す。
「あなたに、あげる」
「……あり、がとう」
 戸惑いながら受け取る。糸の先に重りのついていない風船は、するりと手を抜けて逃げてしまいそうで、不安になった。
 そこでふと、あの時の少年の返しを思い出す。
 空を飛びたいのなら、ぼくは。
 ぼくは、風船になりたいな。
 今考えれば、風船だってどこまでも飛んでいくわけじゃない。気圧の差で破裂して、いずれはどこかに落ちてしまう。
 それでもあの頃は、風船になればどこまでも飛んでいけるのだと思っていた。
 現実を知った今と、何も知らずに夢を見ていた昔、どっちがいいかなんて分からないけれど、少し、寂しい、なんて。昔に戻れることはないのだから、考えるだけ無駄だ。
「……じゃ、」
「ねぇ」
 去ろうとした女性に声をかける。
「…紙飛行機も、風船も」
 く、と手に軽く力を込めて、糸を握りしめる。
「…どっちも、落ちちゃうならさ」
 キィ、と音を立てて立ち上がる。
「高いところまでいける風船になろうよ」
 は、と女性の瞳が少し見開かれる。そこに、あの頃の少女の面影を見た気がした。
「…うん」
 ふと微笑んだ女性が小さく頷いた。
「そうだね」
 なんだか泣き笑いのような顔をして、少女がゆっくり手を挙げた。
「…じゃあ」
 少年も、合わせて手を上げた。
「…お元気、で」
 またね、とは言わない。きっと、もう会うことはないだろう。
 後ろを向いた姿を眺める。長髪が揺れて、遠のいていくのを見て、思った。
 あの頃のままの少女は、もうどこにもいない。
 そして、あの頃の少年だって、どこにもいないのだろう。
 変わらずにいられたら、と思う。でも、この永遠に時が進む世界で、変わらずにはいられない。どんなに駄々をこねて足掻いても、人は大人になっていく。
 取り残された気でいても、体は大きくなるし、空を飛びたいと願うことは減る。折り紙で紙飛行機を作ることはなくなるし、風船を手にする機会も少なくなる。ブランコだって時が経てば錆びるし、色褪せてしまう。
 大人になりたくないと思っていた少年は、大人になって街を出る。そしていつか、子供の頃の公園の景色を忘れていくのだろう。
 まだ、夢をみていたい、忘れたくない。そう願うことはたぶん、当たり前だ。そしてそう思ってもなお、忘れてしまうのが人というものだ。
 ぶわ、と少し強い風が吹いて、思わず顔を庇おうと手の力を緩める。
「あ」
 するり、と細い糸が手を抜けていく。もう一度掴もうと手を伸ばしたが、風にさらわれて取ることができなかった。
 ふわ、ふわ。風になびき、赤い風船が空を上っていく。手を離れた風船は、自由になって好きなように飛んでいく。
 あーあ、せっかく貰ったのに。もうどうしようもないので、多少の寂しさを感じながら小さくため息をついて、赤い風船が、朱く染まった空に溶けていくのを眺める。
 手を離れてしまえば、ただ風になびきながら登っていくだけ。いつかは、落ちてしまう。
 でもそれも、きっと楽しいだろうな、と思った。
 風船が完全に見えなくなってから、ゆっくりとその場を離れる。公園を出る前に、一度振り返った。
 乗客をなくしたぶらんこが、ゆらゆらと揺れていた。

​國學院久我山高校文芸部

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