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いびきは、とても滑稽な物だ。
 人によって、不思議なことに個性が現れるもので、グウと云う音を立てる人もいれば、ゴオと甚だやかましい音を轟かせる者もいる
 そして、ここにも。
 一人の美しい女性が、和室で横になっていびきをかいていた。
「響子さん、静かになさって」
「はあい」
 空返事を世の誰よりも極めている響子は、目を開けたかと思うと、再びいびきをかき始めた。
 その音は、本当に人の所業なのだろうかと、目を見張るもので、新種の虫が鳴き声を奏でていると云う錯覚を、誰もがしてしまうことだろう。
 母から買って貰ったであろう、秀雅な和服も、涎の痕で汚れている。
 父は不眠症に苛まされ、耳栓なしでは眠ることも許されず、母はいびきに驚き、腰を痛めてしまった程に、いびきは皆を苦しめた。
 それでも歯牙にも掛けず、睡眠に興ずる様は、新しいデモの様に感ぜられる。
 もしかしたら、彼女はいびきによって何かに抗議しているのかもしれない。
 今では、家中の者も慣れ切って、止める者は誰もいない。
 響子はそれを良い事に、毎晩、轟音を響かせて続けていたのだった。

 明くる日の晩のことだった。
 響子がいびきを演奏する中、一人の見知らぬ男が、響子の家を訪ねて来た。
 母が急いで玄関へ赴きけば、そこには白髪を生やし、黒縁眼鏡をかけたスーツの男が虫取り網を持って、玄関先に立っていた。
 その姿がどうにも滑稽かつ不恰好で、思わず母は微笑を浮かべたが、むっ、と男が不快そうな表情を浮かべた為、母は名を聞くに止めた。
「やあ、どうも遅くに失礼します。 私、こう云う者でして」
 男から名刺を受け取ると、母は驚嘆した。
 無理もないだろう、その男は昆虫学を専門とする教授だったのだから。
 しかし、こんな家に何の用だろう。
 この家に目新しい昆虫でもいたのだろうか、彼女は困惑の色を隠せない。
「近隣住民によれば、夜中に一匹の聞いたこともないような虫の音がここから聞こえてくるとのことでして」
 老教授は至極真面目な顔をして、母の目を見つめた。
 彼は虫の音が、人間のいびきだとは夢にも思っていなかったのである。
 意気揚々とした表情で、眉間は鋭く引き締まっていた。
 ここで真実を話すべきだろうか——母はしばしの間、考え込んだ。
 そして、一つの結論に至った。
「どうぞこちらへ、教授様。 私達も長らくその虫とやらに悩まされておりました。 家中の者は皆、不眠症に悩まされる始末。 どうかこの家を救ってくださいまし」
「なるほど、それではさぞ大型で凶暴な虫なのでしょう」
「ええ、大型でございます。 そして、立派な涎を垂らしております」
「毒液も! それは危険だ」
 母は笑いを堪えつつ、虫が占拠する和室の方へと教授を案内した。
「ここでございます」
 和室と廊下を隔てる障子では、巨大な影が蠢いている。
 虫は、上の足を巧みに使って、頭頂部を掻いていた。
 どうやら、この虫とやらは関節が滑らかに動くらしい。
 教授は後には引けぬと、より一層、虫取り網を力強く構え、その時を待った。
 額には汗をたらたらと流し、好奇を見逃さんとする姿勢だ。
 母は、そんな教授を気の毒に思いつつも、笑いを必死に堪えていた。

 教授の突入は迅速だった。
「虫よ、堪忍したまえ」
 和室を勢いよく開け、えいっ、と大きな掛け声を出した教授の網は、見事に虫を捕らえた。
 眠っていた虫はたちまち目覚め、教授をまどろむ目で見つめた。
 手足を懸命に動かして、網を振り解こうと試みている。
 同様に、教授も何が起こっているのか理解できぬ様子で、呆然としていた。
「これが、我が家の虫でございます。 と云っても、人なのでございますが」
 その後、この家から虫の音は一寸たりとも聞こえなくなったと云う。       終 

​國學院久我山高校文芸部

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