逆夢
「人はさ、何かにつけて節目を欲しがる」
彼は呟いて、骨が皮を被ったような腕を伸ばす。
日めくりのカレンダーが薄い胸に落ち、彼はそれを乳飲み子を見る目で一瞬間見つめてから屑入れに放ってしまった。
ホワイトノイズが耳に付くラジオからは、あと幾十回の体験を歓喜する声が響いた。丁度、古い型の洗濯機の音のように思えた。細い指はいとも簡単に、それをぶつりと切ってしまう。
君もそうだ、彼は黄金色の瞳でこちらを見据える。髪と等しく、燻んだ純白の睫毛は欠伸の涙に煌めいていた。
「人間らしい、そうでしょ」
「本当に、憎いほど」
「愛おしいね。そういうこと…」
彼は人でありたいようで、自分に感情を持つ赦しをよく欲した。それでいて孤独を恐れ、自分も人である証拠を突きつける。
彼は“人間らしく”生きることが下手らしい。どうしても、生きることを中心に彼の世界は回る。
「君もそうなんでしょう」
「そうだよ。僕も…きっと」
「うん、それでいい」
どちらでもいいさ、一重の瞼が僅かに震えた。
大丈夫、その思考が一等人らしい。感情に掻き消えた言葉は喉仏を小さく鳴らした。
彼の瞳の奥には暗い天蓋がある。彼は一人寝台の上で、悪夢にいつも喘いでいた。そうして、譫言に応えるか否か、自分は寝台の横で考え倦ねながら立ち尽くしている。自身の弱さゆえに、無意識に伸ばされた手のひらを取ることが出来ないのだった。
それだから自分は何かの弾みに、他人に背を押されてその手のひらに触れられないものかと、悪巧みをしてばかり居た。しかし彼の世界に他者を受け入れる容量はなかった。一つの大きな天蓋付きの寝台と、世界に呑み込まれた彼自身、そして逡巡する自分。あと一つの何事さえ、身を置く場所もないほど彼の悪夢は拮抗していた。
「節目、は…」
唯一彼の世界に入り込める、不可視の手。
時間というものは、万物に等しい存在だった。
時の流れという無機質な腕は、躊躇い続ける自分の背を迷わず突き放した。
助けを求める手のひらに、体ごと倒れ込んだ。
彼は寝台から消えていた。
否、寝台の塵すらそこには無かった。
眼前の彼の薄い肩を、自身の鎖骨に押し付けた。
空を抱いているようで、少しの力でひびの入ってしまいそうな骨組みだった。口を開けど吐息ばかりで、あまりに唐突な焦燥に自身が誰より混乱していた。
「君、動悸が煩い。しかも重苦しいね、いいものじゃない」
彼はそつなく自分の状況を受け入れた。
それだけで全てを理解した。
天蓋付きの寝台も、悪夢に魘される彼も、全ては自分の白昼夢。“節目”の手のひらだけが正夢だった。
「…人間、だから」
「うん、君は人間だ」
「……いいことじゃない」
「でも、この思考こそ天賦だろ」
肺がひどく痛んだ。
幾ら生きても酸素は足りなかった。
彼は黄金色の瞳を見せつけるように、脆い身体に宿る強い精神でそこに立っていた。
“節目”の腕は蜃気楼を叩き割り、生きる彼を自分に見せた。彼が魘されていたのは悪夢でも自分でもなく、生きるということだった。
蜃気楼の彼も、目の前の彼もやはり、“人間らしく”振る舞うことに必死であった。
二人が良かったのだ。自分のことすら理解できていない自分を知ろうとする彼と、彼を知りたい自分と。
人間はどうしても自己都合。それを制御するのが思考だというのに、自分は成り損ないであった。
それでも、蜃気楼を見てばかりで居られないと、自分の“人間らしさ”が動いたのだ。
幸い、彼は依然腕の中に居た。
彼もまた“成り損ない”だった。
それが憎いほどに嬉しく、それだから愛おしかった。