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珈琲

 珈琲の底なしの黒に呑み込まれてしまいそうで僕はあの苦みが嫌いだった。痛ければ痛いほど気持ちいい、君はそうやってまたあの黒でかき消してしまうんでしょう。珈琲が赤であればもっとずっとリアルだった。心臓が懸命に痛みを運ぶさまが目の回るようだった。
 君の白く細い指が珈琲の熱を奪うのを見るたび、生活というものが徐々に蒸発していくのを感じていた。あの左手首に触れてしまえば、あっという間に消え去ってしまう。
 映画一本分、君はじっくり時間をかけて珈琲を飲む。ことん、と置かれた白いマグカップにはいつもほんの少しのブラックコーヒーが残っていて湯気一筋たたない。代わりに飲み干してしまいたい衝動に駆られたけれど、一度もそうしたことはなかった。それは、珈琲がぎりぎりと喉を滑り落ちるのが嫌だったからかもしれないし、僕にはどうしようもできない君の痛みを知りたくなかったからかもしれない。罪滅ぼしのつもりか僕は一人ぼっちにされたマグカップを洗って、そのくせ格別な笑顔をもらうのだった。
 寝息が聞こえたら机上のカッターを引き出しの奥深くにしまった。でもそれは逃げ場を奪うことと同じだったのだろう。
 もう眠ってしまおうかと思ったが、作者ごとに並べられた本棚から一冊抜き出した。少し黄ばんだ表紙を眺めながらテレビの正面にあるソファに深く腰を沈める。しかし双眸が文字の上をなぞるだけで意味が零れ落ちてしまう。遠くから届く踏切の警告音がやけに耳について、ろくに読み進めないまま本をしまって台所へ向かう。床には豆のずっしり入った袋が数種類おいてある。それらを彼女が言っていた比率でブレンドした。コーヒーミルへ手を伸ばすとグラニュー糖が目に入る。一瞬手を止めたものの箱ごとゴミ袋へ捨てた。白い粉がぱらぱらと散らばった。苦みや痛みが君にとって唯一の救済だったことを僕は知らなかった。
 ゆっくりハンドルを回すと豊かな香りが鼻腔をかすめた。粒度が均一になるまでそうして珈琲を淹れていく。
 手首の線に触れられずにいたのに、やめてほしいと言ってしまった。死にたくないから切っているなんて理解できなかった僕は君の珈琲に勝手にグラニュー糖を入れた。無力な自分が憎くて君の苦しみを少しでも減らそうとしたのだ。僕にとっては一匙のグラニュー糖だけが正義だった。スプーンで珈琲をかき混ぜるさまが目の回るようだった。
 なみなみと注がれたブラックコーヒーに口をつけた。視界を覆う真っ白い湯気がぐらぐらと揺れている。苦い。やっぱり苦いだけだった。

​國學院久我山高校文芸部

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