潮騒
海鳴りが、鼓膜を叩く。
菫色の髪を靡かせ、彼は透いた海水に手のひらを浸す。水平線の彼方に、黒い魚影が揺らめいたように見えた。
彼は海を友とする。海鳴りは意味を孕んだ言葉として彼の身体に沁み入る。時に、抗いようのない天災が訪れることを。または天からの贈り物が堕ちたことを、海は彼に知らせる。
今日は小魚の群れが一等大きかったことを伝えたらしい。彼は滅多に見せない微笑を洩らす。
「それは、誰の言葉なんだ」
「誰だって変わらない、海に居るものは皆で海なんだから」
そうか、自分は呟いた。自分は生命の声をまだ聴くことすら出来ないようだ。
「いちいちそんなもの聴いてたら、身が持たないぜ」
彼はテリトリーとしている大岩の上に立ち、空と海の端境に向かって言った。
潮風が言葉を吹き戻し、言葉は鼓膜に沁みた。
思わず指が唇に触れる。彼はそれを見て、悪戯好きの子供のように嗤った。
三つしか歳が違わない筈だが、ひどく彼が遠くに思える時がある。彼は遠くの彼方から、生に苦しむ様子を愉悦を含んだ瞳で見つめている。
その時ばかりは、彼が時間という直線上に存在しないのではないかと錯覚する。
雑木林の呻き、北風の笑い、枯葉の咽ぶ声。
その全てを理解することができたなら。
「それが、生命の声だ」
自分はふと声を洩らした。
見上げた彼は、薄い唇に骨張った指を添えて自分を眺めていた。唐突に、彼の存在をすぐ側に感じた。
「生命と心は別物だ、心は概念に基づいて存在する。生命は、確かにそこにある」
大岩から飛び降りて、彼は説くように続ける。
「声は何処から聞こえる?」
ひらめく彼のストールは、陽の光に負けんばかりにどこまでも青い。見据える瞳も等しく、大洋の全てを瞼の裏で静かに見つめている。
声は。
耳に届くものは言葉である。
言葉を乗せる為に声がある。
しかし彼も自分も、言葉を併せ持たぬ声を聴いた。その声は、意味だけを孕んでいた。
「言葉は哀れだ、そう思わないか」
「…お前は何処に居るんだ」
「壁の向こう、海の心に触れる場所に」
彼はそう残して、波に足を着ける。
さざ波は水底の高さを不可視にする。
うねりは彼を呑み込んで、後に深い空の色を残した。
逃げられた。
彼はそういう人間なのだった。
共に息をしている筈が、いつの間にか泡を呑んでいる。背を預けられるのに、思考は法則に全く則ることがない。
きっと、海の声が聴こえたならば彼の居場所は掴めるであろう。言葉の障壁を超えて、さらの心で自然の心と相対せたなら。自己を見限る覚悟が出来るのなら。