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流浪の美人

 昔から普通の睡眠を取れなかった。ここで言う普通とは昔絵本で読んだような、あの長い眠りの中に夢の、またさらに夢を見るようなあの状態だ。一度微睡んで眠りについても、一時間ほどで目が覚める。それからまた一時間たったあたりで再び溶けるように眠る。そしてまた一時間後に、という定期的な繰り返しだ。
 そんなわけで私はその“普通”よりも約半分ほどの時間しか眠っていないことになる。その睡眠の不足が社会生活でそれなりに悪影響を及ぼしていたが、医者にもかからずに自力で周期を身体に慣らした。医者にかかって治すということに何故か拒否反応を示していたのだ。
 高校までは深夜の外出を禁じられていたため、深夜に目覚めてもベッドの上で無意識の空間に浸っていることしかできなかった。だが大学に入り、上京して一人暮らしを始めてからは眠りと眠りの間のブランクを外出することで埋めていた。どうせ目覚めているのなら、気の紛れることをしようと考えたのだ。寝間着として使っているジャージを着てアパートの周辺を巡る。夜の徘徊の目的地は大抵いつも同じだった。24時間営業のコンビニ。客が多く集まるわけでもないだろうに、一日中明かりが灯っていた。
 形だけの自己防衛としてジョギングをし、注目されることを振り切ってコンビニまで辿り着く。深夜の時間に店員は従業員室にいたのだろう。入っても人の声は聞こえない。徘徊を始めた初期に感じていた、静かなコンビニという自分にとってのイレギュラーさは大学二年になった頃でも毎日新鮮であった。

 大学二年の夏、その静寂の片隅に一つ、細い息づかいが増えた。女がいたのだ。年齢は私と同じぐらいか、少し上。日常的に頻繁にこのコンビニを利用していたが、その女を見かけるのは初めてだった。その日を機に、白のワンピースを着た女は毎日この深夜のコンビニに現れることになる。
 私が店に入ると、多くの場合女はデザートコーナーを注視していた。私の入店を知らせる音楽が鳴ると、ピクッと反応して背後を振り返る。そして目が合うと慌てて隣りにある弁当のコーナーに移動する。毎度恒例だった。ここまで同じ行動を毎日繰り返さなくてもいいのにな、と女に疑念を持ちながらも、他人であるため顔見知り以上の関係に踏み込むことはなかった。
 女と私はそれから一年間、途切れることなく互いを認識し続けた。祝日も、天気も関係なく、まったく同じ時間に、同じ行動を繰り返して。いつの日か私は女が自分の幻想によって存在しているのではないかという奇妙な想像をしたこともあった。それらの発想の原因となるものは私自身の性格なども含め、いくつか考えられた。だが、最も異様さが際立っている点は女の容姿にあった。真っ直ぐに整えられた黒髪に、どこか人工味のある白い肌。そして、痩身を纏う長袖のワンピース。年中、変わることなく、汚れも無い純白を持っていた。作り上げられた非現実さが、何とはなしに私の心を濁らせた。


 女との間に進展があったのは、早くに目覚めすぎた蝉が夜にぎこちなく鳴く、気候が本格的に夏に差し掛かかろうとしていた頃だった。一つ上の先輩たちが就職活動を本格的に始めた様子を、一つガラスの壁を隔てて眺めていた頃でもあった。
 その日、いつものように夜中に目覚めた私は近くにあるサークルの飲み会で要る金を下ろすためにコンビニへ向かった。ぬるい空気を体に取り入れながらジョギングをし、コンビニの前まで辿り着くと、例の女が店の前に座り込んでいた。喫煙スペースの横で、俯きながら。私はそれとなく、じっと動かずに固まっている女を眺めた。

 その後、私は女を自宅に連れて帰った。無防備かつ無意味に外に居続けるよりは顔見知りである自分の家にいるほうが女にとっても良いだろうと考えたのだ。もちろんそこには正義感が入り込んでいた。無知ゆえの衝動によるものであったとも言える。
 女を自分のベットに横たわらせた後、私はリビングのソファで身を休めた。その日、私は朝まで一度も目覚めることなく深く眠ったのを今でも覚えている。夢も見ていなかった。



 翌朝に太陽光の気配で起き上がると、いつもと違う感触を抱いた。それは、恐らく他人が家にいるというイレギュラーさからやってきたものだったのだろう。そしてなぜなのか、朝の鳥のさえずりに懐かしい暖かさを見出した。
 二人分の朝食を用意し、ベッドの上で呆けていた女を連れ出して一緒に食べた。女は終始キョトンとした顔をしながらも出された食事を口に運んでいた。食器を片付けた後、私は女に簡単に家の説明をし、遅くまで自分はいないから好きにしてほしいとだけ伝えて部屋を出た。

 深夜近くになってから戻ると女は朝のときと同じ姿勢のまま、ベッドに座ってぼんやりとしていた。遅い時間ではあったが、女と私は簡単な夜食をつまみながらそれぞれのことについて、昔の友人との久々に再開したような温さの中で話した。
 彼女は都内の女子校を出たあと、大学には行かずにバイトを繋ぎ合わせて生活していたらしい。家族とは疎遠になっており、バイト以外で人と接することも無かったと言う。深夜にいつもコンビニにいた理由は教えてもらえなかった。

 
 それからの私と彼女は毎日、長い時間話をすることが日課となった。私はその日に大学で教わったこと、彼女は窓の外から見える街並みの美しさについて私の眠りと眠りの間に語り合った。
 生年月日が近かったこともあり、誕生日には家の中で大ぶりのケーキを用意して一晩で食べ切ったこともあった。
 興味もない海外映画を二日間徹夜で鑑賞したこともあった。

 彼女が外出することは無かったが、退屈はしていないと穏やかな表情で笑っていた。



 彼女はある時、予兆もなく消えた。
 また、私の一人の生活が戻ってきた。



 大学を卒業した後、私は当たり前の波に乗るような形で会社勤めを始めた。自分のどこかが欠けているような、そんな人間らしさを常に自覚しながら過ごす日常は、どこまでも平坦に思えた。
 働き始めてから数ヶ月が経った頃のある日、私は仕事帰りに再び彼女を見かけることになる。

 まるで街中が彼女に支配されてしまったようだった。ビルのスクリーン、駅舎の柱、掲示板に貼られる紙切れの至るところに彼女はいた。無表情の彼女の顔は、夜の闇によく映えていた。
 彼女は、一日にして街の側面を塗り変えてしまった。だが、どの人々も突然現れた彼女の存在に対して騒ぎ立てることは無かった。常に変化し続ける都心においては、これを自然の原理として受け入れていたのだろうか。


 睡眠は今でも途切れ続けている。深夜の外出はせずに、ぼやけた意識の中で彼女との無い生活を想像して空虚さを紛らわせていた。上手く付き合えば、気にすることなんてなくなってしまうのだった。

 彼女は今も、夜の街で輝いている。
 四季の移ろいを眺めるようにして。
 変わらずに、白いワンピースを着ながら。

​國學院久我山高校文芸部

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