正夢
陽光の手のひらが二人を分つ。
窓際の帳は嫋やかに、ただ真直ぐに光の帯を伸ばしていた。時を刻むものはなく、心音だけが確かなひとつの流れを示す。
己の静かに渇望していた世界がここにある。他の介入さえ撥ね付けるような、しかし決して不干渉などではない。眼前で微睡む彼と、天道と葉擦れのささめきのみが赦されている。
我々を排斥するのは不可抗の力。思惑や策略といった雑音はなく、互いに息をして存在を認め合うように。
「幸せかい」
第三者の自分は問う。
「君が居る限り、難しい」
「同じじゃないか。君である限りは……」
自分が自分で居なくなれば良いのか。
言葉が喉奥で立ち消える頃、彼は陽の光に身を起こした。乳飲み子のような頬をして、全く至純な瞳は瑞々しい。己の望む、彼の姿であった。
「むつかしい顔をして、どうしたの」
土の香りのする手のひらは、蕩かす程に温かい。
「また考えごとをしていたんでしょう。愉しいことを考えればいいのに、」
彼の言葉を飲み込む度、背の髄に生温いものを感じていた。それはどうにも穢れそのもののように、透明な彼には隠し果さねばならぬものに思われた。根はやおらに心を喰み、温もりを養分に骨を軋ませる。
瞼の裏に、それに安寧を覚える己を見た。
嗚呼、人は。果たして不安の虜なのだ。
皆すべからく種を持ち、ある類の者はそれに水を飲ることを拠り所に生きる。この生温さはきっと、芽が産声を上げた証だ。
刹那、木枠から窓が滑り出した。真白の帳ははためき、眼前に躍り出ては雨粒を伴って返していく。紫檀の机にまばらな水滴が叩き付けられた。
「閉めよう、」
彼の腕が伸びる。一瞬間のうち、全く見合わない程に細い、骨ばかりの腕がそれをはたいた。
「君を、救いたいだけなんだ……」
その音声は、融けた脳髄を打ち付けた。
養分を求めて、根は肉をも喰む。彼を疵付けた腕に電気信号は届かず、両の手で眼下の肩を掴んでいた。わずかに指先に残った抵抗も、遂には意志のひとつも通じない。
燻ぶった色をした垂れ髪は、汗か雨粒か付かぬもので頬にへばり付いていた。今、己を突き動かすのは、俯瞰で咲う第三者の自己。
それは正しさを求むうち、得てしまった傍観者。しかし、確かに自分であることに相違ないのだ。その齟齬に逡巡を巡らす姿を、彼の至純な瞳の中に見た。脊髄に咲く花弁に似た唇が、徐ろに開く。
「消して仕舞えばいいじゃないか、君に逆らう君なんて……」
誰だ、彼は。
彼は、己に殺された自分を微笑うような奴ではなかったか。遍くものを尊び、決して憐憫を覚えず。それだから彼を慕う自分が居るのだ。
成程心の夢見た彼の姿は、己の幼稚心そのものだった。
手の内の肩を突き離す。彼は寝台に沈んだ。
部屋の悉くが寝台に引き込まれてゆく。開け放しの窓が雨風に弄され、喚き立てている。
柔らかな陽光も、純白の帳も、全ては夢の跡。
それはゆっくりと、しかし確実に。身体を丁寧に開くように、全てを逆夢と認めるが為に。
落ちゆく意識の中、触れた彼の手のひらは土の香りがした。
「また、むつかしい顔」
「不愉快な夢を見た」
「どうせ、考えごとをしたまま眠ったんだ」
彼は眉を顰めて微笑んだ。眼差しの奥に背後の自分を見透しながら、ただ隣に腰掛けている。窓の隙間から入り込む雨音が鼓膜を撫で上げた。
「……分かっているさ」
外は、我々が生きるには酸素が足りない。夢を喰っていた方が、幾分楽に息をすることが出来る。
しかし同時に種は芽吹く。生み出された不安は骨や肉を喰らい、果てに自己そのものに咲く。己を捨てた時、果たして得るのは至極の悦楽か、または行き場を失った苦悶か。どちらにせよ、生温い不安に溺れることに相違ない。
酸素を取り込み難い歪な肺であったとしても、機能しているからこその肺なのだ。