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廃屋

 家の一面を覆う蔦がざわめいている。所々剥がれ落ちた屋根が照りつける日差しを跳ね返す。緑の隙間から覗く壁は色褪せていた。くぐり戸がかたかたと揺れている。
 誘うような風を背に受ける。吸い込まれそうなのを打ち消すため僕は足を一歩後ろに引く。薄い茶色に乾いた地面がざざっと音を立てた。
 僕の家から2ブロック先にあるこの廃屋に関する噂は尽きない。毎朝足早に通り過ぎているが、風に荒らされる葉の音が耳に届きふと見入ってしまった。
「こら、何してるんだ」
 怒号に振り向くと、ほうきを手にした近所のおじさんが猫背でこちらをじっと見ていた。いつも口がへの字に曲がっていて、眉間にしわがある。ちりとりにはあまりゴミが集まっていない。
 心臓が飛び跳ねた。まるで一瞬時が止まったようだった。僕の向かいに住んでいるはずなのに、どうしてこんなところに。
 おじさんのよれよれの灰色シャツが突風に吹かれて膨らんだ。
 「すみません」と勢いよく頭を下げて、学校へ走った。角を曲がってようやく速度を落とす。息を整えていると背中を強く叩かれた。よろめいた僕が肩を上下させているのを見て健《たける》は「どうした?」と顔を覗き込んでくる。どうやら僕はかなり青ざめた顔をしているらしい。
 ついさっき起こったことを話すと、彼は大きく口を開け笑った。
「なんだよ。そんなことか」
「急に怒鳴られてびっくりしたんだ」
 言い訳をするように情けない声になる。
 「じゃあ、放課後その空き家に忍び込む?」と言い、健はにっと口角を上げる。
「じゃあって何」
「前から気になってたんだ。本当に心霊スポットなのか。白黒つけよう」
 確かに、何もないと分かれば登校するときの気分は軽くなる。昔から何をするのも一緒の健がいるなら、大丈夫な気がした。
 授業中の先生の声は右から左へ流れていって、耳の奥では蔦の波音が鳴り続けていた。
 一度家に帰ってから廃屋に向かう間、それにまつわる情報を出し合った。幽霊が出るやらホームレスが住み着いているだとか、その種類は多岐にわたっているようだった。
 廃屋を見上げる。真っ青な空に烏が飛び回っている。
 通りに誰もいないのを注意深く確認する。くぐり戸がきしむ。唾を飲み込む。健を前にして空き家に入った。扉を閉め切ると、風や烏の騒音がピタリと止んだ。靴の中は汗ばんで熱を持っているのに、ひやりと足元に冷気を感じて鳥肌が立つ。カビ臭さにむせた。
 畳の床には何らかの破片や紙が散乱している。
 天井の穴から差し込む一筋の光が手を差し伸べている。
 壁にかかった時計の針は止まっている。
 真後ろの玄関扉に耳を当てるが、外に誰かがいる気配はない。玄関先で突っ立ったまま部屋を一望する。左側の奥には曇天の写り込んだ木製の鏡台、真ん中には丸い机がある。フライパンなどの調理器具が埃まみれで台所に無造作に置かれている。
「住んでる人はいないみたいだな」
 僕のすぐ左隣、シンクの前で健は腕を組み言った。動かない僕のことは気にせず、がさごそと捜索している。
「なんだこれ」
 鏡台の一番上の引き出しに絵があったらしい。はい、と紙をひらひらさせている。床は汚れているので靴は脱がず、仕方なく上がる。
 クレヨンで幼い子供が描いたような絵だ。真ん中に何か黒く丸いものがあり、周りの人々が手を高く上げている。真っ黒い棒人間の上には大きな水滴がいくつも描かれている。雨だろうか。
 ぽたぽたと何かの滴り落ちる音がした。しかし空は変わらず快晴で、雨が降っている様子はない。
 後ろを確かめようと体をねじると、目の端に黒い何か、塊が入り込んだ。健が息を呑んだ音がした。机を見やる。髪の毛の長い女性、右目が潰れている、断面から血を垂らしている、生首。白に少し黒を混ぜた絵の具を塗りたくったような、微かに開いた唇と肌。
 視界がぐにゃりと歪み、脚から力が抜ける。お尻の骨に痛みが走った。
「た、健! 健!」
 後退りと立ち上がろうとするのを同時にしてしまい、腰が軽く浮いたもののまた座り込んでしまう。生首と見つめ合ったまま、足は破片と畳の上を滑っているだけだ。大粒の汗が額を伝った。
 健の背後の鏡に写っているのは、今にも雨が降り出しそうな空と、埃の被っていない台所と、祈るように指を絡め両手を組んで上げている大人の後ろ姿。だらんと腕を振り下ろして、肩から下は身じろぎもせず、僕の方へゆっくり、ゆっくり顔を向けてくる。
 健が何かを叫んで僕の腕を引っ張った。
 無我夢中で地面を蹴った。気づけば僕の家の前にいた。 膝に手を当てると、ぽたぽたと汗が流れ落ちた。肺は空気を欲し続ける。あんな家に入るんじゃなかった。
 ざざっ、ざざっと音がした。おじさんがほうきを動かす手を止めて、僕達の方へずんずん進んでくる。
「……入ったのか?」
 僕がおずおずと頷くと、おじさんは眉を顰《ひそ》め、深い溜め息をついた。
 「あの家について何か知ってるんですか」と息も切れ切れに健が詰め寄った。首を横に振って、自分も子供の頃にあの廃屋で肝試しした事があるのだと教えてくれた。そうか、掃除でなく本当は見張っていたのか。
 もう帰りなさい、とおじさんが言った。健に視線を送ると、口を一文字に結んで頷いた。健は回り道をして帰るようだ。
 翌日から通学路を変えた。あの廃屋の噂を聞くたび僕は体がぎゅっと固くなる。
 あの右目の血溜まりと、僕は毎日、夢で目が合う。

​國學院久我山高校文芸部

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