夜間微香
徹夜は薄暗い階段を登っていた。どこかから差し込む人工的な月影が徹夜を淡く照らす。最上階に辿り着き、錆びついたドアを押した。軋みながらドアが開き、出来た隙間から澄んだ冷気が流れ込んでくる。
屋上には無感情のままに配置された椅子や水槽たちが物思いに耽るように存在していた。徹夜は道具たちの横を通り過ぎ、屋上の空間を囲うように築かれたフェンスによりかかる。ここからは目下で流れる地上の様子がよく観察できるのだ。この時間にはすでに車の通りは途絶え、ちらほらと単数の人間がいるのみだ。徹夜はこの夜の屋上から人々の非日常をチェスのような視点で眺めるのが好きだった。
ぼんやりと眺めているうち、一人の女性がちょうどビルの角を曲がって来る様子が目にとまる。徹夜はその女性に異質なものを感じた。彼女はコバルトブルーのドレスを纏い、長い黒髪にはドレスと同色のコサージュを飾っていた。美しさを形容する姿見が徹夜の内包ともいえるこの景色に溶け込んだ。突然、徹夜は胸を締め付ける冷ややかな靄の存在を感じフェンスを離れた。
僅かな衝動に操られるようにして、徹夜はステップを踏み始める。ウッドパネルの床に当たる靴裏が心地よいリズムを生む。まるで傀儡のように踊る感覚が、徹夜の心に柔らかな心地よさを与えた。次第に虚ろになりゆく瞳で、周りで交差する道具たちを眺める。よくみれば、色はなかった。それぞれが無色を自身であると認めているようだった。徹夜はもどかしい怒りが徐々に湧き上がってくるのを感じた。この世にこんなにも無を語っていい存在があってなるものか、と。
感情が溢れ出す前に操り糸は切れ、徹夜はウッドデッキに体重をあずける。そして、黒い群青の空に視線を向けた。脱力していた。微粒子がうごめくのを微かに肌で感じたが、それきりだった。徹夜は、この瞳に映り込む、薄く膜に包まれた、虚とも、無とも形容できない、対象物の存在を、知った。
陽が徹夜の瞳を淡く濁らせる。起き上がり、先程よりもずっと人間味を帯びた空気を思い切り吸い込んだ。そのままの足で錆びた屋上のドアへ向かう。同じ歩幅で、同じ速さで。階段を下るまで、徹夜は過去を振り返らなかった。
途中ですれ違った、甘い香りの風は、徹夜を混沌の世界へと急かせるように押し出した。