嘆くことのない話
電車の通過する轟音がやけに響く夕暮れの空の下で、茜色のグラデーションがの人々の関心を引いていた。閉まる店もあれば、これから開く店もある。帰路につく人々もいれば、暗闇の人工の光に映えるであろう衣装をまとって早足に歩く人もいる。限られた一日の曖昧な時間に、どろどろと世が蠢いていた。
一人、雑踏の中をただ歩いていた。薄手のコートにこの時期いっそう冷え込み始めた空気の風が吹き込む。寒さを覚えても対策のしようがないため平然としたまま歩き続ける。
行き先はない。ここに来たのは一人で歩いても違和感のない場所だからだった。
“一つの人間”になりたかった。
思考することを憚られないのは一人でいるときのみだと僕は思っている。否定も肯定もされずに、ひたすらに自己の深みに入る。世の知を吸収せずに、人間として先天的に備わっている脳の部位を活性化させ、続いてゆく生への基盤を形成する。孤独な作業だ。
詰まる果てまで思考した脳を持ち合わせながら再び日常に戻ると、今までのなんとなく見過ごしていたものたちが眼に新鮮に映し出されるようになる。僕はその更新されてゆく世界を楽しんでいた。飽きることもなければ、誰を傷付けることもない。自己完結的で、自己満足的な趣味だった。
歩くうちに裏道に入った。近くに小さなライブ会場があるようで、ギラついた音が外に漏れ出している。ロックというのだろうか。詳しいわけではない。動画サイトに投稿されていた、激しい光の飛び交う様子が映った動画をサムネイルに惹かれて何度か観にいったくらいだ。この店は比較的早い時間からプログラムが組まれているようで、会場内の賑わいすぎているほどの歓声と、明らかにステージに立つ人物だとわかるボーカルの声が聴こえてきた。男女の複数人ユニットのようだ。絶妙なハモリのバランスが組まれ、声が重なり合っている。仲の良いグループなのだろう。信頼し合っている様子が伝わってくる。
大学生風の男に控えめな声をかけられて、自分がいつの間にか立ち止まっていたことに気付いた。知らないうちに聴き入ってしまっていたようだ。ライブハウスのスタッフであろう男に軽く感謝を伝え、再び歩き出す。
ぼんやりと足を動かしているうちに、彼女のことをふと思い出した。つい最近に別れた、初めての恋人だった人だ。不釣り合いな関係であったと思う。いつでも場の空気に溶け込んでしまうような平凡さを保つ僕と、水の滴るような彼女のカップル。どこかの映画かアニメでしか見かけない、非現実的な組み合わせだった。出会ったきっかけも同じクラスかつ偶然同じ部活であったことだった。部内で新入生として何回か話すうちに友人となり、そして気付いたときには恋人になっていた。その過程はよく覚えていない。同じ温度の空気が交わるように、僕と彼女は隣同士にいた。
彼女と僕はそれなりに上手くやっていたと思う。賢い彼女と拙い会話しかできない僕の間に喧嘩など生まれるはずもなく、ただ平凡な時間を過ごしていた記憶だけがある。波立つことのない時間が僕らにとって心地よかったのかもしれない。
彼女はとにかく優しい人だった。どんなに僕のテンポが遅れても、それを怒りもせずに、自然な流れになるように埋め合わせをしてくれる。彼女との関係はあくまで純正なもので、進んだとしても、ハグぐらいなものだった。
彼女は今から前の月に突然学校を去った。事前に、僕には最後に彼女が望んだ美術館に行った帰路でそのことを伝えられた。
地方の学校に行くの。そこはね、恋愛が禁じられてる校風のところで、だから、君とは別れなきゃいけない。
下を見ながらもどこか決意した表情で告げるから、僕は頭に次々と生まれる数多の疑問を質することができなかった。今までの平穏な繋がりに予告もなしにやってきた衝撃に、感情の整理がまるでつかなかった。呆けている僕の様子を見た彼女は頬を崩すと、
またね、ありがとう。
と放って走って去っていってしまった。
美術館に展示されていた絵画と彼女の後ろ姿が重なり合い、それがこの上なく美しかったのを覚えている。
後日彼女は周囲から惜しまれながらも最後まで爽やかな姿の印象を残して僕の知らない遠くへ飛びだって行った。僕は、何もすることができなかった。するべきことがわからなかった。
それからの僕は特に変わることもなく日々をこなしていった。思えば彼女と恋人になったときも劇的な変化は無かったように思う。僕にとっての彼女との思い出は、絶対的な安心のある最も幸せな夢に似ていた。
消化不良の跡を残したまま、僕はこれからを生きていくのかもしれない。
僕にも、大切にできる思い出があるのだと自分に言い聞かせて。
空に暗闇が忍び寄ってきているのがわかる。何も決めずにのろのろと歩いてきたために、ここがどこであるのかも分からなくなっていた。ごった返していた人々も、今ではぽつりぽつりとすれ違う人がいるのみだ。
どう帰ろうか。
スマホで検索をかけてみても、こんなときに限ってバグってあべこべな地名ばかり出てくる。人に聞こうと思っても、閑静すぎる住宅街では今の時間に外に出ていることが珍しい。
まいったな。
僕には帰る場所がある。
結局、今まで来た道を引き返すことにした。視覚情報は近く記憶されたものなら信頼できると思った。
住宅街を抜け、蛍光灯の光る商店街を抜ける。ライブハウスの前では、先程歌っていたあのボーカルたちがファンらしき人々と一緒になにやら盛り上がっていた。目立った特徴はないにも関わらず、一度聞くだけで人々の注意方向を支配してしまうような歌声。それが人を寄り付かせているのだろう。勝手な憶測をして、その場を通り過ぎた。
約一時間前に降りた駅についた。ロータリーでは、誰かと待ち合わせをしている誰かで溢れかえっていた。
-----今日はクリスマスだったか。
聖なる夜だ。
歳を重ねるにつれてその日であることの重要さが少しずつ薄れてきている。
友人とは普段から突発的に遊びに行っている。特別、イベントになにか集まってすることもない。
微かに、去年恋人と過ごした今日の日の記憶がよぎった。
それは一通り自己に浸ったあとにやってくる、人恋しさ故であるのかもしれなかった。
改札をくぐり、不格好なサンタたちとすれ違いながらホームに立つ。次発の列車を待つ列に並ぶ。前にいる人々は皆スマホに視線を向けていた。
周りを見渡しても、いつも通りの日々の光景しか存在していなかった。
何か、変化を求めて空を見る。
そこには完全に闇に染まった、でもどこまでも続く無限の世界があった。
綺麗だな、と素直に思う。
電車が定時通りに到着して、僕はそれに乗った。混み合った車内からもう一度空を見上げる。そこにあったのは強化ガラスについた、雨の伝った跡の、薄汚れた装飾のみだった。