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千紫万紅

 縁側に腰掛け、冷水の桶に足を入れる。
 乾いた喉を天然水で満たすような心地よさに、自然と息を大きくついた。

 眼の前には限りがないほど大きく広がる畑がある。周囲の土地よりも僅かに標高の高いこの場所からは、最小限に人間の手が加えられた均整な自然を展望することができる。この地域では午前中に作業を行う家が多いため、夕方に差し掛かろうとしている時間では人と出会うことは珍しい。よって今、目を閉じて感じ得るものといえば青々と茂った木々の葉と、体内で摩擦が生まれないほどの純度をした空気、微かになく虫の声と、どこかで爆走するバイクの叫び声ぐらいなものだ。どれも、外出によって発生した自分の疲労を静かに癒やすようだった。

 そっと耳を澄ますと、人間の、細い息遣いが聞こえる。足水をする自分の右手の方に、一つの人間が横たわっていた。
 この家に住み込んでいる少女だ。安らかな寝顔をして、無防備な姿をさらしている。

 同じ姿勢を保ったまま、しばらく時間が経つ。その時に自分の中で繰り広げていたものを、再び意識を取り戻した時には覚えていなかった。それは眼の前の大いなる自然に対するものであったかもしれないし、または日々の中で蓄積された混沌を消化するためであったのかもしれない。何を言おうと覚えていないものに確実なことなどはないうえ、視覚上の無を証明することなどできない。ただ時が過ぎていただけだ。

 ふと、視界の端に一つの影が映った。
 それは、自分の兄だった。一回り年の離れたその男が、何か思いつめた様子でこちらにやって来る。兄の気に入っている薄いブラウンのスーツは、遠目で見ても艶が乗っていることがわかる。兄は大学で都心で一人暮らしを始めたために、自分と親しくするような思い出は残っていない。連絡ですら一度も取ったことはなかった。ただ兄のTwitterのアカウントで頻繁に更新されるアイコンによって息を知ることのみだった。
 そんな兄が今、家に帰ってきている。大学からの付き合いがあった女性と籍を入れたらしい。現在は住まいを探しているところだという。母から最低限の情報を伝えられたのみであるため、それらの詳しい過程は知らない。どこか家族と一線を引いた側にいる自分がその人に対して感情を抱く必要もなかった。

 急に、袖を引かれた。
 振り返ると、上半身だけ起き上がらせた彼女が目を覗き込んで微笑んでいた。
 「ねえ、ちょっと歩かない?」



 境目の曖昧な緑葉が風によって微かに揺れている。
 鬱蒼とした木々の間に一本だけ大きく開かれている道を二人で歩いていた。溌剌とした表情の彼女は聞いたことの無いような音律を口遊みながら、不均等なステップを踏んでいる。慌ただしさが狂乱にも見える季節柄であり、歩きながらでも瞼は重みを増し続けている。
 彼女は、僕となんの関係性も持っていない。家族でも、友人でも、恋人でも、顔見知りですらない。彼女とは言っているが、実際の素性は何も知らない。ただ、「彼女」という代名詞が、彼女の輪郭によく見合うと思ったから、そう呼んでいるだけだ。
 突然現れ、それから当たり前のように側にいるようになった。何者であるかを問いただした期間もあったが、毎度違う答えを返し、しかもどれも現実味を帯びたものであったため最後には混乱を嫌う自分が諦めた。相手の諦念を悟った彼女は、最初から根負けしやすい無気力な性格に期待していたのか、意地の悪い顔をして笑っていた。


「今日、夏祭りあるんだってね。小規模だけれど、伝統があるお祭りって聞いたよ」
「もしかして親から聞いたの?」
「そうそう。お母さんの知り合いが打ち上げ花火の担当をしているらしくて、近いうちに開催されるからって教えてくれたの。優しいお母さんだよね、本当に」
 そう言う彼女は『母』の言葉を口にするときに、僅かに顔が曇っていた。
 世間的には浮遊者として片付けられてしまう彼女にとって、霞ほどの情をかけられただけでも後ろめたさを感じてしまうのかもしれなかった。


 この地域では年に一度、夏に祭りが行われる。名は広くは知られていないが市中では学校や職場を巻き込んで盛り立てるため、その時期だけは人の賑わいが起こるのだ。しかも大規模ではないゆえ、外部から観光客がやって来ることも稀だった。
 そうして今日、三日間に渡って催される祭の最終日を迎えていた。自分は祭に対して行くべきのほどの価値は感じていなかった上、誰とも約束というものはしていないため自分からはどうしても足が動かなかった。

「お祭り、きっと楽しいんだろうなあ」
 今では落ち着いた足取りになっている彼女が、ぽつりと零した。
 積極的な言葉は互いの口からは出なかったが、その足は確実に祭りの会場へと向かっていた。


 到着したとき、祭りは一つの盛りの波を越していた。自分たちが神社の入り口である紅い鳥居を潜ると、火照った顔の人々とすれ違う。お好み焼き屋の店主も、やり切ったという表情で額の汗を腕で拭っていた。
 この祭りでは、最終日に締めをつけるように巨大な花火が何発か打ち上げられる。この地域の人々はその希少さに一夏の感動を詰め込む。その一大イベントをぜひ身を持って記憶しようと毎年千人ほどの人々が一挙に集うのだ。
 花火は、神楽とは別の楽しみであると示すように、屋台などで賑わったこの場所とは少し離れた河川沿いで打ち上がる。今大移動が発生しているのは、そのためだ。気分が高まっている人々が、一度にひぐらしのなく林の道を歩く様子は、ある一つの百鬼夜行にも見える。特に自分が小さい頃、従兄弟に手を引かれてこの波に混じったときなどは、一種の恐怖をもたらすアトラクションを体験しているような、絶命の危機すら感じられたものだった。背が高くなり隣に彼女がいる今では、ごった返した集団が、幼い頃の記憶と現在が混じったフィクションのように見えた。

 金魚すくいで二人ともども開始直後に敗退し、彼女が焼き立てのたこ焼きの熱さに苦渋の表情を作ったりした。人の余韻が残る境内で、彼女の手に持つ林檎飴が目立っていた。
 ひとしきり屋台を堪能した後、彼女が一度行ってみたい場所があると言い、再び歩くことになった。

 

 神社の敷地を囲う古びた木の板のそばを、一歩一歩不規則なリズムで歩いた。背を向けた遠くの方から届く人がひしめく雑音が不穏に耳に響く。彼女は、陰った瞳を硬い地面に向けていた。左側の少し下った河原から、一匹の蛙が鳴く声が聞こえる。
 空は、すでに黒い。柱が錆びついた蛍光灯には小さな虫が群がっている。帰宅が遅くなった際に何度となく経験してきた夜の闇が、今日はやけに薄汚く思えた。いつも言葉を絶やすことのない彼女も先程から口を開かない。視界の悪い平坦な道を歩いていると、前も先もわからない不安で心臓が不旋律を描く。その具体的な自身の中身を想像するだけで自分の三半規管が狂い始める気がした。

 静寂の重みに一つ溜息をつくと、手首に何かが触れた。見ると彼女の手が自分の静脈を包み込むように当てられていた。
「いいでしょ?ちょっと触れるぐらい」
 頷いて、返事をした。


「人が集まる所って綺麗なんだね。一見バラバラに見えるのに、一同揃って向かう先は一つなんだもん。観察のしがいがあるの」
 彼女は独り言を言うように語る。
「下手をすると怒られそうな考えだね」
「いや君に対してだから言えるだけだよ、もちろん。常識的な言葉を気にしなくていい相手なんてそう多いもんじゃないでしょう?」
「色んな場所を放浪している君も常識を気にするんだね。もっと強い我を持ち合わせているものだと思ってたけど」
「常識と個性なんて別物だと思うけれど。そもそも私は今までに人と関わってきたことなんて無いのよ。君が初めて」
「へえ。また新たな謎が増えたね。どこから君はやってきたんだろう」
「それも想像に任せるわよ。山からやってきた精霊でも世を闊歩する裏支配人でもなんでもいいわ」
「そしたら君は生まれ別れた姉とでも考えておくよ」
「ええ、そうしましょう」



 しばらく道を歩くうち、先程までは一切見られなかった人の姿がちらほら現れてきた。これから仕事が入っているのか、高級そうな鞄を手に掛ける女。激しい鼻息を鳴らしながら涙を懸命に拭っている大学生風の男。浴衣を着て何やら甘い言葉をささやきあっている小学生の男女。祭りのある日は、その豪華さの裏に見られる人の側面というものを知ることができる。いま横を歩いている彼女も、今の状況を同じように眺めて楽しんでいるのだろう。
 彼女は、目を細め、口を真っ直ぐに結んでいた。
「そういえば、君の楽しそうにしている姿というのを見たことがない気がするの。なんだかいつも私に付き合ってもらっている気がして。君ってなにか好きなものはあるの?」
 一匹の蛙が、水面に飛び込んだ。
「夜に布団の中に入るときとか、あとは浅い川の中を裸足で歩いたり」
 一人の男の子が、すぐ脇を走り抜けていく。
「楽しそうに見えないねえ」
 彼女が顔を不満げに見ながらごちた。
「いや、結構安らぐものだよ。自然の中に溶け込んでいる気分になって」
「そう。だったら今度から私も一緒に連れていってよ。いつでも私はふりーだから」
 少し迷った。今まで一人で習慣の中の一つとして行ってきたものが、彼女にとって吉となるか凶になるかがわからなかった。
「わかった。ただ一緒の布団で寝るのはやめて。君は体温が高いから。汗っかきに免じてそれは守って」
「えー、仕方ないなあ。せっかく耳元でささやける権利があるなら君のこと洗脳して遊ぼうと思ってたのに」
「残念だが洗脳についてはそれなりに知識があるからね。君がもし実行しようとしてもすぐに察知するから無駄だね」
「この知識人の成りかけが!油断すると足元すくわれるよ」
 そう言って、なにやら満足気ににそっぽを向いてしまった。


 しばらく歩くと、先に川が分岐しているところが見えた。そこは完全に分かれて二股になっているのではなく、擦り傷をして僅かに出血をしているかのような、非常な場所であった。何組かの人々が、疎らにいた。
「ここはね、家の窓から外を見ていたときに見つけた場所なの。川の主流からちょっとはみ出していて、時代を経るにつれて統合されちゃうはずなのに、ずっと、そのままで残っていて。ほら、こことか最近つくられたように見えないの。水辺に古びた切り株だってある。不思議な場所でしょう?」
 その水だまりは枝に成る球体の果実のように美しい円であった。周囲にはその神秘を護持する針葉樹林が並んでいた。
 水黽が水面に波紋を何重も描いている。
「綺麗な場所だね」
 適切な言葉など、その時の自分には無いように思えた。水面に映る月の影が、微かに揺れた。



 その時、静寂を揺らす大きな音が響いた。
 空に、大輪の花が咲いていた。
 特別な形はなく、ただただ大きく、小さい花が何個も、何重にも開いては、閉じていく。耳の奥で打ち付けるような音が反響し、その衝撃の恐れが目の前の玉響な鮮麗をより絶対的な崇高に仕立て上げる。
 時間の経過は無かった。ひたすらに、空に浮かぶ幻を見続けていた。



余韻が、残った。
 微炭酸の泡の音が辺りに響き、残された暗闇に、既に消え去った極彩色が滲んでいた。

「ねえ」
 彼女はつぶやく。
「一つ聞いてもいい?」
 続きを促した。
「私、君から見たら何者なの」
 辺りには再び闇が戻る。
「知らない」
「じゃあ」
 焦った声色だった。
「私はどうしてこの場所にいるんだろうね」
 正直、嫌だった。嫌な気持ちになった。
 もう辺りに人影はない。隣りにいるはずの彼女の存在すら希薄になり、空虚な孤独を押し付けられたまま、空に浮かぶ満月を眺めていた。
「帰ろうか」
 素直に同じた彼女と連れ立って、歩いてきた道を引き返す。

「浮遊者は、誰の役に立っているのか」
 彼女は続く言葉を待つ。
「誰の役にも立たないだろうね、残念ながら」
 彼女は何も話さない。
「ただ」
 不安定に点滅していた蛍光灯が、完全に灯った。
「いなくなったら、困る。ただそれだけ」
 極力、無表情かつ無感情で在るように努めた。
 彼女は長い溜息をつくと、言葉を継いだ。
「今夜のすべての行動と言葉が、仮に私によって事前に作られていたシナリオだったとしても、君は私を側にいさせてくれるの」
 当然だった。
「よかった」
 彼女が微笑んだような気がした。
 帰り道に映った景色は、白くぼやけていたが、それはどこか透いていて、純粋だった。




 その日は高校から真っ直ぐに帰った。文机の上に上半身ごと寄りかからせていた彼女に川遊びをすると声をかけると、眠たげだった態度から一変させて嬉々とした表情となった。
 川の浅瀬まで一緒に駆け、息を上がらせたまま裸足になり、水と戯れた。途中何度か足が縺れて転んだが、お構いなしにはしゃいでいた。
 一息つき、川岸に横たわった。
 水上には彼女がいる。形のない水が面白いのか、思いつく限りの方法を繰り返し試して遊んでいた。

 ユーフォリア
 そう呼ぶのに相応しい心持であった。
 薄い生地の布を纏い水と舞う姿は、目を細めて眺めると繊細な色合いを持った暖かみとなる。
 この日々が続いていけばいい、と思った。

​國學院久我山高校文芸部

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