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さらば愛しき憧れよ

 母の髪が大好きだった。黒々としたその髪は歳を経ても変わらず美しいままだった。それに比べて私の髪はくるくるしていて所々跳ねている。母はそんな髪を可愛いと言ってくれたけれど、私はそうは思えなかった。どうせなら母のような髪を持って産まれたかった。
 艶やかな黒髪への欲求は歳を重ねるにつれて高まっていった。歳を重ねても黒々としている母の黒髪は、今でも私の憧れだ。そこには白髪の一本もない。母が、父もこの髪が大好きだったと言うたびに朧げに蘇る父の姿が母に重なった。
 私が成人して何年も経ち、家庭と呼べるものを持ったときだった。親戚からの電話で、母の訃報を知った。家で人知れず亡くなっていたという。私が最後会ったときはあんなに元気だったのに、そう親戚に零せば、心配かけたく無かったんでしょ、と当たり前のように言われた。突然の訃報からしばらく呆然としていた私を引き戻したのは、幼い我が子の泣き叫ぶ声だった。泣く我が子をあやしながら、私の母は死んだ事実に少し涙が出た。
母の葬儀は簡素な物になった。母が死んだ、と聞いて母と別れた父も葬式に訪れた。改めて見た父は、思いの外大柄だったけれど、今はその背を丸めて項垂れていた。私はそんな父としばらく母の思い出を語り合った。

 つつがなく行われた葬式も終わり、部屋には父と私の家族だけになった。母のことを好んでいた夫は未だに少し泣いていて、私も涙が出でくる思いだった。そんな私達を心配そうに子どもが見ていた。
父が棺桶の中の母を見て呟いた。
「相変わらずお前の髪は綺麗だなぁ。俺が惚れたときから変わってない。」
「ごめんなぁ。辛かったよなぁ。一人にしてごめんなぁ。」
 そんなことを言って大粒の涙を流した。
「母さんは、髪を一等丁寧に扱ってた。父さんがこの髪を大好きだと言ったからって。私も母さんのこの髪が大好きで、昔はこんな髪になりたいと憧れてた。」
 それを聞いて父はますます涙を流した。

 母の亡骸は火葬された。燃やされて、自慢の髪も無くなった母の骨はちっぽけで、こんなにも小さかったのかと驚かされた。骨壷に収まった母に私は空に行ったとき、髪がなかったら母が悲しむと思い、自らの髪の毛を入れた。こんな髪でも無いよりはマシだろう。
「母さんもきっと天国で喜んでるよ。」
「父さんの髪も入れてよ、母さんもそうした方が喜ぶと思う。」
 父は私によく似た髪を切り、骨壷に入れた。
 そうして墓に母を入れた。線香を焚いて祈りを捧げて、母に最後の別れをした。ありがとう、と心を込めて。

​國學院久我山高校文芸部

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